1日目

「よっ」

 という澄んだ声と共に右斜め上方向から現れたその顔を、僕は顔認証データベースと3度照合してみたが、いずれもヒットしなかった。
 茶色がかった長い髪の先端は、僕の前のテーブルに触れるか触れないかのあたりで左右にゆっくり揺れている。大きな瞳は瞬きもせずじっと僕を見つめている。僕はその満面の笑みを浮かべたまま90度傾いた見知らぬ顔を、できるだけ平静を装いながら観察を続けたが……4度目の照合の途中で諦めた。

「名前は?」

 僕は持っていたスマートフォンを胸ポケットにしまい、これ以上ないくらい単刀直入な質問をする。

「わー、唐突。職務質問みたい」

 彼女の大きな瞳はさらに大きく見開かれた。だが笑みが浮かんだままの口元を見る限り怒っているわけではなさそうだ。相変わらず顔は横倒しなので表情の|読み取り《スキャン》には多少苦労するが。

「名前から思い出せるかもしれないからね」
「それはつまり、私の顔は覚えてないよ、って言ってるんだよね?」
「もしくは、最初から知らない可能性もある。いや、おそらくそうだと思っている。キミの方が僕を誰か他の人と勘違いしているとか、知り合いじゃないのを承知で馴れ馴れしく話しかけてるとか、そのあたりの可能性を疑っている」
「なんかヤな感じですねー。そんな言い方してるから友達も彼女もできないんだよー」

 彼女は仕方ないな、とでも言いたそうな表情で大袈裟に何度も頷く。繰り返すが顔は90度傾いているので頷く動きも水平方向だ。頷き一つでこんなに神経を逆撫でさせることが可能なのか……と妙なところで感心してしまうほど目障りな動作だったが、なるべくその憤りを表情に出さないよう僕は努める。

「……で?」
「ん?何の話だったっけ?」
「名前だよ。キミの、名前」
「あ、そうだった。……名前。名前ねー、うーん……」

 しばらく彼女は考える。
 ……考える。身体を起こし、顎に手を当て、くるりと後ろを向いて首をかしげながらなおも考える。そうやってたっぷりと時間を使った後、振り向いた彼女の口から出てきた言葉は、僕の想定を超えていた。

「……決めてなかった」
「決めてない?」

 思わず声が上擦った。

「うん。名前、決めてない。|undefined《アンデファインド》だ。……あ、アンでいいや。アンちゃんって呼んで」

 初めから本気なのか冗談なのかよくわからない態度ではあったが、この発言はますますもってよくわからない。相手をした自分の方がバカだったのかもしれない。その感情がわずかに眉に表れたのを彼女は見逃さなかった。

「あー、あー、今、ヘンなのの相手して損したとか思ったでしょ」
「否定はしない」

 僕は視線を逸らす。早くこの会話を終わらせたい。しかし自分から強制終了させるのも何となく癪だ。どうすれば上手く打ち切ることができるか、僕は頭を巡らせていた。

「あのね、女性に本名を聞くのは失礼なんだぞ、そもそも」

 そんな聞いたこともないルールを強要する彼女に僕はますます苛立ってきたが、それを表に出すのもやはり癪だ。僕は感情を抑え、努めて冷静に話しかける。

「じゃあ、アンさん」
「アン『ちゃん』で」
「初対面の女性にいきなり『ちゃん』付けは失礼にはあたらないのかい?」
「そんなルール初めて聞いたよ?誰に教わったの?」

 どうもこの|会話《ゲーム》の主導権は彼女に握られ続けているようだ。悔しいが。そろそろ少し声を荒げてもよいだろうか。そう思って息を吸い込んだ、その瞬間。

「あ、ごめん。もう行かなきゃ」

 腕時計を見て声を上げる彼女。肩透かしを食らい、息を詰まらせる僕。

「それじゃねー、また今度。次会う時まで、ちゃんと覚えててね。私の顔」

 そうやって彼女は慌ただしく走り去り、行き場のない憤りを置き土産に、奇妙なファーストコンタクトは終了した。