ヒトカタシロ

 ……はい、いい天気で良かったです。
 ……そうなんです。もうそんな歳なんですよ。
 ……はい、いえいえ、こちらこそ……
 ……

 朝から僕は、同じ言葉を繰り返していた。
 紅白に彩られた一升の酒は、一体何を形にしたものなのだろう。祝福か。感謝か。厄除け祈願か。それともただの古臭い風習か。僕はそれをただ運び続ける。

 初老、などと大層な呼ばれ方をする。そんな立派な身分になったのか。
 おめでとう、と人は口にする。そんなに喜ばしいことなのか。

 名簿の最後に書かれた家を、その表札に書かれた苗字を、僕はよく知っていた。
 ひと呼吸分の躊躇いの後に押すインターホン。はーい、という声とともに姿を現したのは、
 あの時の君だった。
 昔のままの君だった。

 ――相変わらず、キレイやんな。
 そんな軽口が自然に出せれば――もっと器用な生き方が、僕は出来ていただろう。

 小さな集落で、僕と君は同じ年に生まれ、ずっと同じ教室で、ずっと同じ遊び場で僕らは過ごした。異性であることを意識しだしたのは十歳を過ぎたあたりからだろうか。それでも、中学生になってしばらくの間も一緒に遊んでいた記憶はある。
 ある日僕の部屋に遊びに来た君は、無防備にも僕のベッドで眠ってしまう。それを今不意に思い出す。安心して眠るその顔を、微かに上下する胸を、白く眩い脚を、
 僕はただ、見つめていた。
 その時の映像は、
 今でも鮮明に覚えている。
 その時の感情は、
 その時の僕は、
 何を思っていたのだろうか。

「そうやんなー、お互いそんなトシになったんやなー」

 君は明るく笑う。本当に、昔と何も変わらない。声も、表情も。その名前だって、一度も変わっていない。
 薬指に光る指輪を見られないよう、僕は愛想笑いとともにその扉を閉める。

 いつの間にか、裏山をバイパスが貫通していた。こんな限界集落に。
 聞けば、有事の際の安全のために、という。
 それで喜ぶ人がいる。
 大人になってそれは学んだ。

 いつでもやり直せる、と人は言う。
 もう一度がんばってみよう。そう思うためにあるのか。
 失ったものは戻らない、と人は言う。
 捨ててしまったものの大きさを憂う。そのためにあるのか。
 それを理解するにはまだ若すぎるのか。遅すぎるのか、早すぎるのか。

 四十にして惑わず、と孔子は言う。
 子供の頃は、もっともっと大人だと思っていた。そんな年齢に自分がなって実感する。
 人は、そんなに強くない。
 今でも惑い、もがき、揺さぶられ、血を吐くような思いで、それでも僕は生きていく。
 人形代(ひとかたしろ)に穢れを移し、それでも僕は生きていく。
 他には、何もない。

 いつの間にか、陽射しはかなり強くなっていた。
 故郷の冬に似つかない好天。これは、誰のおかげだろう。