マン・オン・ザ・マンホール

 はじめは暑さのあまり幻覚を見たのかと思った。道路の真ん中で陽炎に揺れる物体は、近付くにつれ人の輪郭が見えてきて、やがてそれはおじさんの後ろ姿だという事をぼくははっきりと認識した。その接近までの数分間、おじさんは炎天下の中、ずっとその場に立っていた。
 なんだか怖くなったぼくは、なるべくおじさんの方を見ないように道路の端を足早に通り過ぎた。しかし、しばらく行って振り返ってもまだ動く気配がないおじさんの姿を見て、ぼくは好奇心を抑える事が出来ず、意を決しておじさんの元にもう一度近付き、何をしているのかと声をかけた。
 汗をだらだら流しながら目を閉じていたおじさんは、ぼくに気が付くと、優しそうな笑みを浮かべて足元を指差した。
「これや」
 そこは、マンホールの蓋の上だった。灼熱の太陽に熱せられたマンホールの蓋の上におじさんは立っていた。そしてよく見るとおじさんはなぜか裸足で、足の裏からしゅうしゅうと焦げ臭い煙を上げていた。
「この暑さやろ。立っとったら、くっついてしもてん。もう動かれへんわ」
 おじさんは暢気に笑う。いや、笑っている場合ではないのではないか、相当熱いのではないか――と、見ていたおじさんの足がどろりと溶けた。うわあ、とぼくは思わず声を上げる。
「はは、溶けてきおったな」
 他人事のように呟くおじさんとは対照的に、ぼくはパニックになっていた。このままではおじさんがマンホールの蓋の熱で完全に溶けてしまう。ぼくは泣きながらおじさんの手を引っ張った。早くおじさんを助けないと。でも、おじさんの足はぴたりとくっついて動かない。
「ありがとな。でも、これでええんや」
 おじさんは、もう一方の手で、優しくぼくの頭をなでる。
「わしな、昔から夏が好きでな。いつか、自分も夏になりたいと思てたんや。夏の一部にな。そうや、こうすれば良かったんやな。これでわしも、夏になれるんや」
 おじさんの言っていることは、ぼくにはさっぱり理解できない。だけど、おじさんの表情はとても嬉しそうだった。自分が、夏になる。そう聞くと、なんだか少しだけ羨ましいような気もする。
 いつの間にか、おじさんの下半身はもう無くなっていて、逆にぼくが見下ろす形になっていた。おじさんの体は今もしゅうしゅうと音を立てて溶け続けている。まだ握っていたおじさんの手は、もう触れないくらい熱くなっていた。おじさんはその手を優しく振り払い、にっこりと微笑んだ。
「じゃあな、ぼうや」
 そう言っておじさんは、完全にマンホールに溶けて消えた。

 次の瞬間、ばうん、という大きな音と風圧で、ぼくは後ろに倒れこんだ。
 溶けてなくなったはずのおじさんと、マンホールの蓋とが一緒になったものが、勢いよく打ちあがった。口笛らしき音とともに空へ空へと昇っていく。
 そして、見上げたぼくの視線のはるか先で、おじさんは赤・青・黄色の綺麗な光の玉となり、ぼんっ、と夏空にはじけ飛んだ。
 その美しい大輪の花を、降り注ぐ色とりどりの火の粉を、ぼくは尻もちをついたまま、呆気にとられてただ見つめていた。
 気が付くと、大きな音に驚いて外に飛び出してきた人たちが、ぼくと同じように空を見上げている。みんな、美しさに目が釘付けになっている。拍手をしている人もいる。
 ぼくはそれを見て、少しだけ誇らしげな気持ちになった。

 そのおじさんがその後どうなったのか、ぼくは知らない。
 でも、今全身に感じている痛いくらいの陽射し、ねっとりとまとわりつく熱気、鼻をくすぐる草いきれの匂い。これらの一部は、きっとあのおじさんなんだ。
 今年の夏は、いつもとちょっとだけ違う夏になる。