気比松原 イン・モノクローム

「よそ見するな、っつってんの!」

 空は、どこまでも田舎色である。

 冬服がそろそろ恨めしくなる季節。陽射しを遮ってくれそうな雲はどこにも見当たらず、呑気な空の青が広がっている。砂浜から照り返す光が余計に暑く、首筋を汗が伝う。制服をいっそ脱ぎ捨てようか、という衝動はすでに何度も頭を過《よぎ》っているが、その度にすぐに打ち消している。周りの目を気にする必要などなく、そもそも制服を着て戦う必然性を問われて、誰もが納得できる回答を用意できているわけではないのだが。それでも、五月が終わるまでは母校の冬服がいい、と私――藤沢那子《ふじさわなこ》は自分にルールを課している。自分が今でも敦賀高校の生徒である、という数少ない証だからだ。

 その空を背景に、彼女は優雅に舞っている。

 翻《ひるがえ》るスカートは私と同じ高校の制服だ。深く青いシュシュでまとめられた長い髪は、眼前に広がる敦賀湾から流れ込む濃密な潮風を受け、大きく靡《なび》いている。
 砂浜の一箇所が大きく窪んでいる。舞い上げられた砂がまだパラパラと降っている。すなわち、彼女はあの地点から跳躍したことを意味している。それがひとえに信じ難いほど遠く離れた場所であっても、他に説明がつかない以上それは事実である。
 彼女の横顔。逆光ではっきりとは見えないが、記憶にはある。あの事件を発端として何度か面識を持った彼女。
 彼女の名前を、私は知っている。
 今からコンマ何秒かの後に、私は彼女の名前を思い出す。

 ああ、最初に伝えておくべきだったことがある。今語っている、冒頭の台詞を発端とするこの場面《シーン》は、実時間に照らし合わせると非常に短い。短い、と言っても人それぞれだろうが、おおよそ一呼吸のうちに終わるくらいの時間である。にもかかわらず長々と語っているのは、それだけ長い時間のように感じていた、というその時の私の心理的要因を加味してほしい。

 松林には、《《色》》がなかった。

 宙を舞う彼女の背後。気比松原《けひのまつばら》と呼ばれる日本有数の景勝地。
 海岸線に沿って遥か遠くまで切れ目なく続き、一年を通じて深緑を見せてくれるはずの松原。それが、今では幹から葉の先に至るまで、すべてが白くコーティングされている。
 雪?違う。もっと異質で、無情で、不快なもの。色彩を無理矢理奪われたモノクロームの世界。北極や南極――テレビでしか見たことはないが、おそらくこんな様子なのだろう。全てが凍りついた世界。空と海の青以外、一切の色彩を拒絶する世界。それに、汗ばむほどの陽気が一層の異質さを醸し出している。ここ気比松原は、コントラストの美しさから「白砂青松」などと呼ばれているが、もし今授業があったら、白砂白松とでも教えてくれるのだろうか。あの地理の先生なら下卑た薄ら笑いを浮かべながら言いそうな気がするが。

 その松林を背に、彼女は華麗に舞っている。

 放物線を描いて跳んだ彼女の軌跡は、下向きへとその方向を変える。髪は天へと靡《なび》く。手にした武器は――槍、だろうか。女の子が持つにはやや大きすぎるような気がしないでもない。切先が三つに分かれた、変わった形の刃が銀白色に冷たく光る。その刃を包むのは、白い煙か。まるでドライアイスのようだ。ということは、実際に相当冷たいのかもしれない。彼女は、その槍を振り被るように構え直す。その切先を、真っ直ぐに着地点へと向けて。

 その先に、《《雪山》》が存在する。

 《《雪山》》。雪ではないという矛盾を承知の上で、やはりそう呼ぶのが一番伝えやすい。冬、駐車場の隅っこに積み上げられて春を待つ物体。それが初夏の海岸で自我を持ってうねうねと動いている。動いている以上、それは雪ではないという理論が成り立つ。無理に別の例え方をするなら、真っ白の巨大ナメクジとでもいうべきだろうか。…言わなきゃよかった。嫌悪感がこみ上げる。とにかく悪夢のような光景だ。

 私からは十歩ほどの距離。私が先刻まで――正確には今も、だが――対峙していた敵だ。あの冬の日を境とし、この街は《《雪山》》に蹂躙《じゅうりん》されてきた。一変したこの街の主であるかのように存在感を主張する生命体。この異変そのものを具現化したもの、と呼んでもいいのかもしれない。この敵を殲滅し、街から失われた色を取り戻すため、私は戦ってきたのだ。
 私の手にも、そのための武器が存在する。彼女のものほど大振りではないが、派手な装飾が施された槍。その穂先からは、真っ赤な炎が溢れ出している。青と白のみで構成されるこの光景で、ひときわ存在感を放つ赤。以前の日常を取り戻すための希望の光だ、と私は思っている。
 先刻までは、この海岸には私と《《雪山》》の姿しかなかった。一対一で睨《にら》み合ったまま、かなりの時間が経過していた。その静寂を破ったのが、私の同年代であろう少女の声である。正確には聞き取れなかったが、いつまでも手こずっている私を叱責する、おそらくそんなような言葉だったと思う。予想外の声に、私は戦闘中にもかかわらず声の主を求め辺りを見回していた。
 そして、冒頭の台詞に至る。

 《《雪山》》の上に、彼女は優雅に舞い降りる。

 その姿は、地上へと姿を現した女神か、鬼神か。
 砂浜に落ちる彼女の影は徐々に大きさを増していく。槍は、彼女の全体重を乗せ、流れるような美しい動きで、一点を目掛け振り下ろされる。その無慈悲に光る刃が終着点に辿り着いた時――今日の戦いは結末を迎える。

――次に語るのは、この異変の始まりから終わりまで。この街に冬が訪れた頃、この日から約半年前に遡ることになる。ちなみにこの異変の終わりは次の冬が訪れた頃なので、約一年に渡る物語ということになる。ただ、心配することはない。全てを語るのに、そこまでの時間は必要としない。