1-5 藤沢那子、遭遇する
「す、すごーい」 杏が本日七度目の感嘆の声を漏らし、白い息となって敦賀の冬空に消えていく。
私――藤沢那子《ふじさわなこ》は近所に住む杏を誘い、西側を流れる笙の川を目指し歩いていた。 朝早くからの訪問に笑顔で応対してくれた杏の母親に礼を言う。初めは不満げな表情を見せた杏だったが、窓の外を見た途端、目の色を変えて飛び出してきた、らしい。
「…やっぱり、変だよね」 「変だよ。これ。異変だわ」 舗装された道路、田んぼ、畦道。その全てが、雪《《ではない》》白い物質で覆われていることは、何度も説明した通りだ。
最初、庭に出るガラス戸を開ける前に、一瞬だけよぎった不安があった。それは、直接手で触れても問題のない物質か、ということ。そればかりか、有毒ガスの発生源となっている恐れもあった。ただその不安は、隣家の庭で飼われている柴犬のペー太郎が今朝も元気にはしゃいでいたことで、ほぼ払拭されている。
道端にしゃがみ込み、生えている雑草に恐る恐る手を伸ばす。付着した白い物質は、どう見ても―― 「これって、重曹とか、ベーキングパウダー? に、見えるよね?」 「んー、たしかに」 杏が顔を近づける。 「田んぼに撒いてる農薬にも見える」 それは嫌だ。どこかの農家のおじさんが、調子に乗って夜通し撒き続けたのだろうか。慌てて雑草を投げ捨て手を払う。
笙の川が近づくにつれ、今までとはまた違う異質な光景が鮮明になってきた。 隣の公文名《くもんみょう》地区との間を流れる笙の川。その川を境とし、向こう側は昨日までと同じ平和な田園風景のままだった。そればかりか―― 川にかかる、自動車同士が楽にすれ違えるほどの幅を持った橋。その橋のちょうど真ん中で、白い物質は綺麗に途絶えていた。
「……どういうことなの?」 まったくわからない。常識の範疇をとうに超えている。誰かの大掛かりなイタズラなのだろうか?何の得があるのか想像できないが。 杏の意見を聞こうと振り返ろうとしたその時――
「那子!」 緊迫した杏の叫びが辺りに響く。同時に、左腕を強く引っ張られた。重心を崩した体を杏に抱き留められる。
「…あ、あれは…何、なのかな…」 杏の目線の先。 比較的広く整備されている歩道の隅。 うず高く盛り上がった雪山――いや、雪山状の白い物体――それは、ゆっくりと二人に《《近づいてきていた》》。
「…何なの、これ」 その雪山状の不気味な生命体は、じりじりと距離を詰めてくる。 その中間、私の目の前には、健気にも私をかばうように手を広げて立つ杏がいる。いつもは頼りなげな親友の背中が、今は非常に頼もしい。
「これ、逃げた、ほうが、いいよね…?」 後ずさりながら、杏が泣きそうな、しかし気丈な声で私に問いかける。返事をしたいが、言葉にならない。
「…………せーの、で」 やっとの思いで声を絞り出す。乾いた喉が痛い。 「…せーの、で走り出そうか」 杏は全国屈指の名門校、敦賀高校陸上部のエースだ。私も、真面目に取り組んでいるかは置いといて、名目上は弓道部の所属である。走って逃げればなんとかなるかも知れない。
その時だった。 その雪山は、今までの緩慢な動きからは信じられないような素早さで伸び上がった。いや、伸び上がるという表現が適切かどうかわからない。が、その体長は一瞬のうちに倍ほどにもなり、見下ろされる格好となった。
もう、恐怖の限界だった。 足の力が完全に抜ける。私はその場にへたり込んでしまった。 「那子? ちょっと! しっかりしてよ!」 杏の悲痛な叫び。ごめん、杏。ヘタレな友人で。あなただけでも福井県代表の脚力を生かして逃げてください。
杏の肩越しにそびえ立つ雪山。それは、しばらくこちらを品定めするようにユラユラと揺れた後―― 一気に二人に覆いかぶさってきた。
ああ、雪崩だ、雪崩。 雪崩に飲み込まれるのって、こんな感じなんだろうな。 覚悟を決める。杏の震える右足をぎゅっと握りしめた、その時。
――私は、本日もう何度目だろうか、信じがたい光景を目にする。
煌く閃光。 両の手を突き出す、杏の後ろ姿。 巻き上がる煙。 轟く雷鳴のような音。 弾け飛んで行く雪山の破片。 杏が何かを叫ぶ表情。轟音にかき消され、私の耳には届かない。 何かが焦げるような匂い。
――全ては、一瞬のうちに訪れ、一瞬のうちに消えていった。